ゆるりを愛す | かんの虫

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ニンプ日記〜ハハ日記へ

2010年7月29日、男児出産しました。
はじめての育児に
めくるめく日々です。

今日も長いですよ。

1歳3か月。

今日はヤンネであった「しあわせ音空間」という
親子で楽しめるライブに行ってきました。

畳のお部屋でこどもたちは自由に動き回り
やわらかいこえと音がゆったりと流れ
おいしい手作りのお菓子をいただき
お茶をすすり
窓からは日差しと風が

ああなんて気持ちのよい。
ヤンネもこの会も今日がはじめてだったのだけれど
この建物の
この雰囲気で
このひとたちが
このやわらかさで
全部が絶妙なバランスですごくぴったりしている
ゆるくて力が抜けているんだけれどぴったりしている
ほんとうに心地のよい会でした。

うちの坊はここぞとばかり
のびのびと動き回っておりました というより
部屋のはじに並べてあるお客さんの靴に突進
つかんでは投げ、つかんでは投げ
それを必死に阻止しつつも
ああそうか、とひとつわかったことがあったので
書き留めておこう。

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ここのところ、
自分の興味の向くまま
いろいろな場所に飛び込んで
たくさんのひとたちから多くの刺激をもらって
すごく楽しいなあと実感していました。

ところが。
これ自分のおかしなところなのですが、
ちょっと刺激をもらいすぎてビリビリしてしまってたようです。

題して「人のフリみてビリビリビリ」

まじめに
志を高くもっている人に対しての劣等感。
「ほんとうは」もっとこうしてあげる「べき」なんじゃないか

もちろん
うちはこうしてるよ とか
こんなおもしろいことがあるよ とか
わたしはこう考える とか
みんな興味深いことを教えてくれているだけで
誰もわたしに
もっとこうしなよ、かわいそうじゃんとか
ダメを出したりしてるわけでもないのに


息子を追い掛け回して
靴を投げるのを必死でやめさせながら
ああ、こういうときは
危なくない限りはすきにやらせる「べき」なのに
なんて思った瞬間、
ばかげてる!
って途端に冷めたのです。しーん。

すきにやらせてやる「べき」
これ、ぜんぜん自分の言葉じゃなかった。
聞いて、咀嚼もせず、体内を通過してるだけ。

そう思うとなんだか笑えてきて
捕まえたままゴロリころがって
うたごえにゆるり浸かっておりました。


言うまでもなく
すきにやらせる「べき」ということが
正しいのか・間違っているのか ということではないです。

どうすべきなのがほんとうに一番よいのか より
どうすべきなのがほんとうに自分たちによいのか であり
それを考えて選んだのかどうか ということ


ごはんだったり遊びだったり
いろんな考え方がある。

できてないと苦しむ必要はなくて
どんどん教えてもらえばいいんだ
そして
いいとこどりすればいい。


どう暮らしたいのか がおいてけぼりになっていました。


そしてわかりました、
わたしはゆるりと、ふざけながら、たのしく暮らしたい。
考えながら、たのしんで暮らそう。

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それにしても、
いろんなひとに出会うということは
ほんとうにたのしいことです。

しかも知っているひとから知っているひとの話が聞けたりと
意図せずつながったりしちゃうのとか
ほんと うきゃーっとなります。
(長野の規模ならではかも)

人見知りながら、ひととの出会いを
どんどんたのしめるようになったのも
動き回ってくれる息子のおかげです。
子の存在って、すごい。